BaBaOrche

高田馬場管絃楽団 風雲の24年!
(第50回定期演奏会プログラムより)


第1回定期演奏会への道

1997年5月4日のことである。 夜7時を15分ほど回っていた。

場所は山梨県河口湖畔。高田馬場管絃楽団(以下、ババカンと略す)の合宿所、丸富荘の練習場である。
西の空がようやく暮れなずみ、山の端が漆黒の闇に溶け込んでいた。
ホルンの降り番の一団が、とつじょ練習場に駆け込んできた。

「て、て、てえへんだ。ヘール・ボップ彗星だ!」
「な、な、なんだと。やろうども、ついてきやがれ!」
音楽監督・森山 崇は十手、じゃなかった指揮棒を放り出し、外に飛び出た。残された団員も、われさきにと裸足で外へ出た。

「おおっ!」
総勢60名、呆然として西の空を見た。
そして定期公演50回、創立24年、ババカン誕生以来の長い歳月を、ヘール・ボップ彗星のイオンの尾を眺めながら想起していたのである(と思う)。

時間を24年前、ババカン創立時にさかのぼる。
ババカンの正式な発足は1973年9月のことである。この年の夏、以下のような手紙が関係各方面に送付された。

高田馬場管弦楽団(仮)発足のお知らせ−−

このたび、早稲田大学交響楽団卒業生有志の呼びかけにより高田馬場管弦楽団(仮称)が発足いたしました。
当管弦楽団は独立のアマチュアオーケストラとして、そのメンバーを早稲田大学交響楽団OB社会人などに限ることなく、広く音楽を愛する同志を募って音楽活動を行っていこうとするものです。私たちはオーケストラとしてまだ極めて不完全な状態にあります。新たな入団者、とくに弦楽器奏者の入団を心から歓迎いたします。

現在の練習曲目
ウェーバー 歌劇『オベロン』序曲
ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』

この文書が配付される前、73年8月13日にオーケストラ創設の会合が初めてもたれたのだそうだ。
集まったのは16名。いずれも早稲田大学交響楽団、73年3月の卒業者である。
つまり、当初は早大交響楽団のOBオケができる案配だったのである。ところが、発足前にこのプランは消える。

創業者の土居太郎(クラリネット・2代目運営委員長)、そして丹下栄(チェロ・初代ライブラリアン)らは異口同音にこう語る。

「そうね。ワケオケのOBオケという位置づけはすぐになくなったんだ。たぶん、手続きやら根回しやら、めんどくさくなったんやろ。よく覚えてないけど」
なるほど。そうして上記のような文書が作成されることなったわけだ。すぐに立教大学交響楽団OBや日本女子大学弦楽オケOBなどが参加し、現在の原型ができあがった。

当時を知る立教OBのファゴット奏者、酒井敏幸は、

「そうそう。学生のころ、ワセオケのトラに行っていたんだ。それで土居さんたちとも親しくてね。73年の秋ごろに声が掛かったと思う」
と、記憶の糸をたぐりよせるように語った。
音楽監督は、当時、早大交響楽団トレーナーだった森山 崇が就任した。だれに音楽監督を依頼するのか、少しだけ議論があったらしい。創業者の一人、ヴァイオリンの某女史は

「そうね。少し考えたかもしれないけど、やっぱり森山さんよお」
と述懐する。
ちなみに、73年8月13日の楽団創設会議の参加者16名のうち、現役団員はヴァイオリンの今井博美ただひとりになってしまった。
なお、ババカンのネーミングの由来は、土居によれば次の通りである。

「4年生のとき、フルートの関谷憲昭らと高田馬場木管5重奏団ってのをつくったんだ。これがババカンになんとなく受け継がれたと思う」
「いや、違う」と言うのは川又進(チェロ・現ライブラリアン)だ。

「あのアンサンブルはたしか、馬場下木管5重奏団だったはず」
「いいや」と主張するのは丹下栄だ。丹下は現在、下関市立大学経済学部教授として教鞭をとっている。丹下はまるでゴミ箱のような研究室で次のように語った。

「正式名称は馬場下だったと思うけれど、高田馬場木管5重奏団という名称も使っていたのを覚えている」
う〜む。議論は果てし無く続きそうだが、いずれにせよこの木管アンサンブルが元凶、じゃなかったネーミングのルーツであることは間違いなさそうである。

後年、たぶん80年代の中頃。「ババカンという名称では身も蓋もない、ここはカッコよくナントカ・ハルモニーとか、片仮名にしないか」、という議論が起きたことがある。「おお、そうだそうだ」と、いっとき盛り上がったのだが、結局、改名はできずじまい。そうこうしているうちにババカンという名前は定着していった。

例えば、1985年11月23日に東京文化会館で先年亡くなった柴田南雄さんの「シンフォニア」という管弦楽曲を演奏したことがある。柴田さんもわざわざ聞きにきて下さったことを思い出す。

その2週間後、私は柴田さんがキャスターをつとめていたNHK・FMの音楽番組を聞くともなしに聞いていた。日曜日の午後、遅い昼食をとりながら。

「次の曲は私の作品、シンフォニアです。この曲は最近、東京のアマチュアオーケストラ、ババカンが演奏してくれました」
私は食べかけていたスパゲッティだったかソバだったかを噴き出しそうになった。

「そうか、柴田先生もババカンと呼んで下さるんだ。それも全国放送で」
そうだそうだ。産み育ててくれた創業者の皆様のためにも、ババカンという名前を大切にしようと、その日の練習時に皆に報告した(はずだと思うが、よく覚えていない)。


本当の最初の演奏会は聴衆なし

さて、1973年にもどる。9月に正式発足したのだが、なんと、演奏会の予定はなかった。「録音セッション」を74年4月に行うことにしたという。土居太郎や丹下栄によれば、既存のオーケストラが演奏会をこなすことによって声価をあげていることに反発し、「純粋に音楽しよう」という趣旨だったらしい。今考えるとよくわからない理屈だが、73年なら理解できる。

この年、2月に国際金融制度は完全な変動相場制に移行。10月には石油危機がやってきた。それまで安定していた日本経済の高度成長というシステムが、このとき完全に終焉を迎えたのである。70年安保の騒乱はおさまっていたが、政治の季節は続いていた。大学生はおおむね反体制的であり、議論も好きだった。マンガもよく読んでいたが、難解な本だって読んだふりをしていた時代である。やや青臭いババカンの方針も、こうした時代背景から考えればうなずけるのだ。

翌、1974年1月27日、「高田馬場管絃楽団原則」なる文書が作成される。正式に名称も決定し、規則も生まれたらしい。「らしい」というのは、その規則が見つからないのである。いくつか、規約のプランは発見したのだが、議論だけして決めなかったらしい。現在にいたるまで、ババカンに規約はない。ただ、名称はこのとき以来、弦の字が「絃」になっている。

実は、80年代中頃に規約をつくろうという話がもちあがったことがある。例によって、「そうだそうだ」と団員の反応はよい。しかし、いつのまにか面倒くさくなり、放ってしまった。それでもちゃんと運営されているところが面白い。「なんとかなるわい」という楽観主義は、ババカンの長所であり、短所ではない(と思う、思いたい)。

1974年4月28日、大久保「学生の家」で録音セッション。上記2曲を演奏したが、当然のことながら観客はなし。

そして紆余曲折を経て、12月1日に第1回定期演奏会を開くことになった。手元に74年7月の文書記録が残っているが、7月の時点でまだ公開演奏会をもつかどうか議論している。演奏会をやるかどうかで1年も議論していたのである。こうしたシリアスな連続ディスカッションを経て、1回目の演奏会がようやく開催されることになった。


アンコウ鍋で取り戻せ

1回目から現在まで、すべての演奏会記録を掲載したのでご覧いただきたい。

2度のオイルショックが襲来した70年代。

円安から85年のプラザ合意を経て、急速な円高を経験した80年代。

バブルとその崩壊を味わった90年代。

プログラムの曲目を見ても時代状況はまったく反映されていないが、その当時の音にはたしかに反映されていたのだ。

80年代キンピカのバブル時代のババカンは、音も人間関係もやや荒れていたかもしれない。不思議なことだ。90年代、とくに92年不況期に入ってからは、音に輝きが戻り、人間関係も安定してきたような気がする。なぜだろう。

92年の冬に、合宿でホルンの鈴木浩司が巨大なアンコウを調達し、アンコウ鍋を皆でつついたことがある。アンコウがオーケストラを安定させた、わけではあるまいが、なんとなくこのころから人間関係がシミジミしてきたことは事実である。まるで互いの存在を確認しあうように、合宿で鍋を囲むという習慣は今も続いている。おことわりしておくが、夕食ではない。夜の練習が終わったあと、深夜の習慣である。

第1回の演奏会から出演している川俣裕章(ホルン)は、包丁さばきもあざやかに、いつも鍋の食材を調理している。すでに名人芸である。合宿所の厨房で川俣の後ろ姿を見ていると、つくづくシミジミしてくる。だが、最近はシミジミしすぎて、創業当時のシリアスな議論が減りすぎたかもしれない。

ふだん、団員のだれがどこの大学の出身だか、何の仕事をしているのか、だれもまったく意識していない。しかし、ときどき出てくる母校の話や仕事の話はとても面白い。

すでに中間管理職が増えているので、ヒタイにシワを寄せて日本経済を憂うる団員たちの姿は、実に味わい深いものがある。


ババカンには現在、全国30以上の大学の出身者がいるが、早大出身者が23人と、いちばん多いのは歴史的な経緯ゆえであろう。しかし、70年代末に早大交響楽団で一種の分裂騒動が起き、早大フィルハーモニー管弦楽団が設立されると、ババカンにも両方の出身者が混在するようになった。同じ早大OBでも、同じオケの体験を共有していない。したがって、早大出身者が多数でも、絶対多数ではなくなった。現に10人ずつ程度であり、年々比率は低下している。混在しているからといってギスギスしていることはまったくない。微塵もない。誤解のないように。

早大の次に多いのは、立教大学の6人。そして、東京工業大学4人、法政大学4人、明治大学4人、京都大学4人、専修大学3人、埼玉大学3人、ICU3人、新潟大学2人、と続く。ババカンは比較的一様なカラーだと思われがちだが、誤解である。出身校だけを見ても、ご覧のように驚くほど多様だ。

文系・理系大学出身のサラリーマン・公務員だけでなく、医師や鍼灸師もいる。クラリネットの捧道宏は目黒区で開業している鍼灸師だ。3年前、私が大阪で転倒して首が動かなくなったとき、捧を休日にたたき起こして治してもらった。また、チェロの松澤純子は眼科医である。家族の眼のトラブル時に電話でアドバイスしてもらったこともある。この場を借りて御礼申し上げます。

ホルンのバリー・チェスターは唯一のアメリカの大学出身者(ペンシルヴァニア大学)だ。練習の合間にはいつも科学雑誌や経済学の本を読みふけっている物静かな学究肌である。このプログラムに「ばらの騎士」の解説を流麗な英文で執筆しているので、ぜひお読みいただきたい。

さて、これ以上、団員出身校を紹介する余裕はないが、北は東北大学から南は九州大学まで、ババカンには全国各地から集まっているのである。ババカン・カラーが形成されたのは、たぶん同じ鍋をつついているためであろう。比喩ではなく、本当なのである。

音楽監督・森山 崇は創立以来24年、ババカンの風雪を味わい、私生活とババカン生活の境界もあいまいなまますごしてきた。昨年、1946年生まれの森山は50歳を迎えた。本日、ババカンは50回目の定期演奏会を迎える。なんとなくめでたいことである。

ババカンには創立当初から現在まで、社会的な功名心がまったくない。そういう意味では、創業者たちによる70年代特有の思考の様式はみごとに受け継がれている。これぞDNAの継承というものだろう。

そう。ババカンはいい音楽といい人生を味わう場なのだ(と思う)。メンバー全員が青年だった創立当時と異なり、現在の団員は青年と中年のハイブリッドである。今日、ブラームスはどのように鳴り響くのだろう。


ブラームスの第4交響曲は人生の秋の音楽だ。

ババカンも春夏を越え、秋を迎えている。

そしてそれは、豊穣の秋なのである。


坪井賢一(トランペット)

文中敬称略。ババカン通史を記すにあたって、多くの皆様のご協力をえました。創業者の皆様のコメントを引用いたしましたが、やや筆者の脚色と推測が入っております。表現上、その他すべての責任は筆者にあります。また、ババカン全員による統一見解ではなく、私自身のものであります。事実関係についても私の推論に拠っている部分があることをおことわりいたします。ご静聴、ありがとうございました。


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